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「フィンチ家の奇妙な屋敷でおきたこと」救済装置としてのフィクション

「フィンチ家の奇妙な屋敷でおきたこと」救済装置としてのフィクション


『フィンチ家の奇妙な屋敷でおきたこと』

主人公は17歳の少女エディス・フィンチ。彼女はその富と不運で知られたフィンチ一族の最後の1人であり、若い身空で天涯孤独となっていた。

フィンチ家はハリウッドの子役スターをはじめとした有名人も輩出していたが、一族の大半が謎の変死や蒸発を遂げ、地下にはモグラ男が住んでいる、曽祖父のスヴェンはドラゴンに殺された等の奇怪な噂が尽きなかった。

おまけに大工仕事が趣味で、パズルや秘密の通路を作るのが大好きだったスヴェンは屋敷の改築と増築を繰り返し、屋敷内には家人さえも知らない秘密の通路や隠し部屋、覗き穴が無数に存在していた。

エディスは6年前に母と去った屋敷を再び訪れ、ある目的から数奇な歴史で彩られた一族の死の背景を探り始める。
フィンチ家の奇妙な屋敷で彼女が出会うものとは……。

 

本作はウォーキングシュミレーターというジャンルに分類されるらしいです。ゲームの造詣が浅くてこの単語自体知らなかったのですが、そのままずばり「歩きながら探索する」主旨のゲーム。ホラーやミステリー系のノベルゲームに近いですが、それよりもっと没入感が臨場感が強いのは、プレイヤーと操作キャラクターの視点が完璧に同期する為でしょうか。

ディレクターも言ってましたが、「体験する小説」に近い感覚です。幻想と怪奇に彩られた豊饒な物語世界にどっぷり浸れます。

本作のテーマとなるのはノルウェーから海をこえはるばるやってきた、フィンチ一族のおよそ100年に及ぶ年代記なのですが、このフィンチ一族というのが奇人変人ぞろいな上、とにかく皆薄命で奇抜な死のエピソードに事欠きません。

RPG好きなひきこもりオタクが単調な工場労働で心を病んで見た妄想、絵心に恵まれた少年が手に入れた魔法の絵筆で具現化した異世界への扉、猫からフクロウ、サメから得体の知れない怪物へと変身した少女の顛末、落ちぶれた元子役スターをハロウィンの夜に襲った惨劇……。

登場人物はエディスを含めて計13人(フィンチ一族外も含めるともっと多い)ですが、この13人の死のエピソードがそれぞれファンタジックな物からホラー色が強い物まで千差満別で、奇想天外にして荒唐無稽なストーリーにがっしり心を掴まれます。なので誰か1人は必ずぐっとくるエピソードに出会えるはず。
さらに言うと、本作は信用ならざる語り手もので到叙ミステリー要素も含んでいます。
視点人物は原則エディスですが、屋敷を探索して故人のアイテムを使用すると、そのアイテムの所有者に視点が切り替わって彼らの死亡時または蒸発時のエピソードを追体験できる仕組みです。

特筆すべきはビジュアルの造りこみの精緻さで、フィンチ一族13人分(もっと多いか)の部屋の内装や家具調度蒐集品など、所有者の性格や趣味、好みが徹底的に反映されています。
動物好きで夢見がちな10歳のモリ―の部屋は少女趣味なピンクの色調で天蓋付きベッドや可愛いドレッサーがあり、双子の兄弟サムとカルビンの部屋は左右対称になっていて、カルビンのスペースには宇宙飛行士やロケットの模型がどっさり、サムのスペースには兵隊のフィギュアやモデルガン、ボーイスカウトのメダルが飾られていたりと、部屋を見るだけでその人物の人柄が伝わってくるようですみずみまで探索甲斐があります。

あとこのゲーム謎解き要素がほぼありません!推理とかしなくていいです!
なので歯ごたえない、物足りないって人もいるとは思うんですが、自分は頭使うの苦手だし、物語に集中できるので非常によかった。
ていうか屋敷の中を歩いてるだけで満足感があります、洋館フェチ必見です。

特に印象に残ったのは1歳で死んだグレゴリーのエピソードですね。
フィンチ一族の死のエピソードを知るには、彼らの部屋に辿り着いて、残された手記や日記・手紙などを読む必要があるのですが、グレゴリーは赤ちゃんなので自分の見聞きした事や感じた事を周囲に伝えられず、父親のサムが亡き息子の気持ち、彼が見た世界を想像しながら妻にあてて手紙を書きます。

これがもう……目頭が熱くなって……。
幼い子供が不慮の事故で死ぬ、っていうだけでやり切れないし辛いのですが、本作の真骨頂は決して「死をただ救われないこと、報われない事として描かない」って所ですね。
即ち、フィクションは絶望に救いをもたらす。
ぶっちゃけエディスが日記や手記を読んだところで、フィンチ一族の死の真相は明らかになりません。エディスがわかるのは死亡した本人、あるいは残された身内の感じたことや思ったことだけで当然そこには嘘や願望も含まれます。

本当は自殺だったのかもしれない。
本当は苦しんで死んだのかもしれない。
本当はもっと生きたかったのかもしれない。

本作はそれはそれとして、救済装置としてのフィクションの力や物語の意味を再認識させてくれる重層的な話に仕上がっています。
エディスが故人の日記や手記、あるいは遺族が故人に捧げた詩なりを読むと死亡した当人に視点が切り替わるのですが、その世界が本当に面白おかしくデタラメで楽しく美しく愛おしい。
グレゴリーは浴槽で入浴中、母親が父親からの電話に立った少しの間に溺死してしまうんですが、グレゴリー視点では彼の大好きなカエルのおもちゃやアヒルがひとりでに動き回り、グレゴリーはそれを見てキャッキャッとご機嫌に笑います。
自分の不注意で息子を死なせた事を悔やみ、離婚届にサインして去って行った妻に、サムは「彼は本当にカルビンによく似ていた。どんな世界を見ていたのか、僕たちに教えてほしかった」と書き綴りました。
世の中には救われない事実や報われない現実より大事な事があって、それはサムにとって「彼をどう覚えていたいか」でした。
サムの双子の兄カルビンも子供の頃に事故死していますが、サムはその死を前向きにとらえグレゴリーもまた幸せに包まれて逝ったのだと祈り信じます。

「愛は祈りだ。僕は祈る」

舞城王太郎の「好き好き大好き超愛してる」の有名なフレーズで、私も折にふれ思い出す大好きな言葉なんですが、本作を見ている間ずっとこの言葉が頭を駆け巡っていました。
私の大好きな古川日出男の「gift」にも通じるテーマなのですが、本作が決して辛く重苦しいだけの悲劇に終わらないのは後付けのフィクションがちゃんと救済装置として機能してるからなんですね。

それは残された人、=確かに存在していた故人を大事に思っていた誰かの「こう在ってほしい」「救われて欲しかった」という切実な祈りと願いから生まれた虚構であるが故に、しみじみと沁み入る余韻をもたらす。

事実はわからない。現実とは違うかもしれない。
それでもこう在ってほしいという祈りがフィクションに結晶化し、手記や日記、手紙を通して故人の姿を生き生きと今に甦らせる。

グレゴリーのエピソードは子供のいない自分も泣きそうになったんで、お子さんがいる人はもっとガツンとくると思います……アメコミ調のモリ―のエピソードや、地下に数十年間ひきこもっていた彼のエピソードもお気に入りです。っていうか全部テイストが違って全部好き。
合理的な解決や狭義の真相を求める方には合わなそうですが(死んだのか蒸発したのか、何があったのか結局不明なエピソードも何本かある)そこに至るまでの当事者の感情の変化や周囲との関わりに魅力を感じる方には自信をもってお勧めしたいです。

ちょっとマイナー目でYouTubeでの実況動画もそんなにないですが、興味が出た方は実際にプレイするか、Vtuberさんで実況されてる方も何人かいるのでさがしてみてくださいませ。
最後にアイロンさんの実況動画を貼っておきます。


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漫画小説アニメ映画海外ドラマが好きな腐女子です。