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寺田寅彦と音楽(寺田寅彦の西洋音楽と建築音響への眼差し)

寺田寅彦と音楽(寺田寅彦の西洋音楽と建築音響への眼差し)


隠喩としての<天井> 〜寺田寅彦の『二十四年前』を巡って〜

音は一度奏でられると、空気の中に消えてゆき、二度と取り戻すことはない。演奏会で、楽器から放たれた音は、空気の粒子の振動により客の耳まで届けられるものの、その刹那にあとかたもなく消失してしまう。その経験は非常に限定的かつ有限的なものでしかない。同時代の若い日本人作家で、西洋音楽に触れ始めた者の多くは、音楽に付けられている歌詞の意味内容や、楽譜に書かれている共有可能な音楽構造の分析に哲学・美学的な意味付けをし、論を組み立てていく。そして音楽に某かの形而上学的な意味—その多くは、シラーなど、わたしの父の祖国に由来するロマン主義的な美学に基づく—を見いだすのだが、当然のことながらわたしにとって新鮮な文章はそう簡単に存在しない。しかし、科学者でもあるあなたは、そこに踏みとどまらずに、わたしたち西洋の文化である科学的な精神をいち早く吸収して、音楽という事象そのものに立ち向かっていった。音楽的な土壌と科学的な態度を馳せ持ちながら、わたしの演奏会での姿を観察し、音楽の聴取という概念に関して、つまり近代音楽の精神性について的確に描写したのだ。わたしはそんな日本の生徒を他に知らない。

 

西暦にして1900年頃、日本の暦で言えば明治33年頃、と言うのだろう。おそらく、あなたは、わたしの教え子の一人、夏目金之助の紹介でピアノの独奏会に来たのだろう。当時、23歳の大学入りたての、片言のドイツ語をしゃべる、若くて真面目なあなたの表情はよく覚えている。日本ではまだ男子が弾くことが珍しかったヴァイオリン。それをあなたが苦労して購入して、まだ数年、という時だったか。あなたと同じく、その日の演奏会の曲目は忘れてしまった。それでもあなたは、わたしの、演奏が終わってから「楽器と天井の間に往復する音波の反響に聴き入っていた」姿、最後の余韻まで聴く姿を見事に記憶し続け、それを二十四年後に素晴らしい随筆にしたためたのだった。

 

まず、わたしの来歴について少し語るべきだろうか。この演奏会の6年前、つまり1893年に、哲学者の友人ハルトマンの勧めに従い、西洋の哲学や古典を教えるため、ロシアから日本へとはるばると渡ってきた。なにしろ、浮ついた世の中から遠く離れ、人付き合いを極力少なくし、一人思索に耽りたい、そんな性分だったので、隠遁に近い生活を送るのは、遠い異国でこそ可能だった。来日してすぐに東京帝国大学で初めての美学の講座を開くなどして、講師業をこなすようになっていく。そんな仕事の傍ら、わたしの関心の中心には常に音楽ー十代の頃モスクワ音楽院でチャイコフスキーやルービンシュタインから学んだこともある— があった。若い頃、音楽の活動をするにあたって、内気な性分から、コンサートにつきものの社交がどうも苦手であり、その道を専門に進むことはなかったが、それでも関心は抱き続けていたのだ。日本の環境では、鑑賞機会こそ皆無だったものの、幸いこんな遠い異国の地でも、大量に輸送したスコアを一人で「読む」ことで、思索に耽ることは可能だったし、日本に仕事をしにきた優秀な音楽家と知り合う機会もない訳ではなかったのだ。

 

音楽に対する造詣、それは日本においても実際に深まっていき、一人でピアノに向かう時間が増えたのは確かだった。孤独なひとときを音楽にあてられる最高の環境ではあったのだ。しかし、極東の地域なので、当たり前のことだが、良い聴衆には恵まれなかった。あなたがまさにその随筆、『二十四年前』で描いていた通り、演奏を終了すると余韻を待たず、「無遠慮に」すぐに拍手するような観衆に対し、「少しはにかんだような色を柔和な顔に浮かべて聴衆に挨拶をした」わたしは、あなたの察する通り、内心閉口したことをはっきりと告白しておかねばならないだろう。しかし、あなたはそのような観衆ではなかった。あなたはおそらく、ヴァイオリンを演奏し、ある程度の西洋音楽体験があったと見受けられる。日本人の青年であるあなたが二十三の時点で気づいたことに関しては称賛するべきなのだろう。

 

それにしても、あなたが叙述した「楽器と天井を往復する音波」という描写は大変興味深く、また的を得ているように思われる。このような言い方はいささか気が引けるのだが、日本において西洋音楽の最先端の試みを行っていると讃えられているわたしの演奏は、常に最新の芸術を求めるあなたにとってまさに西洋音楽芸術の<天井>であることには違いないだろう。そして、何人も<天井>と自分自身の感性を伴った肉体である<楽器>の間を往復して思考せざるを得ないのだ。誤解がないように言っておきたい。わたし自身が演奏する音楽も、わたしにとって一つの限界である芸術の<天井>であり、それが<天井>であるように最善を尽くすとともに、常にわたし自身、肉体と言う<楽器>から往復して芸術である<天井>へと向かう循環的な思考が必要になってくるのだ。そこにおいて先端芸術の<天井>とは何か、という規定を問い直すことが出来るだろうし、そのような思考をする若きあなたの姿、そしてあなたの芸術に対する思考が浮かび上がってくるようなのだ。そのときあなたは、先端芸術という<天井>へと反復的な思考を行ったのではないか。

 

あなたの「楽器と天井を往復する音波」という描写には、さらに多くの読みができ、興味深い。何故ならば、それは、文字通り、建築と音響の関係性を意味しており、当時の先端的な科学的思考とも連結するからだ。まず、ご存知だと思うが、西洋音楽は1600年から1900年の間、建築とつながりが絶えることはなかったことを指摘しておかねばならない。各時代様式、ルネッサンス、バロック、古典主義、ロマン主義の作品は、その時代の音響的環境と演奏場所が一致することが条件となってくる。特に、18世紀や19世紀の音楽において、効果的に演奏を期待するためには、コンサートホールの天井が、複雑な残響を形成することが条件付けられてきた。そして、『二十四年前』で描かれた演奏会では、あなたは失念してしまったようだが、わたしはまさにこの時代のものが十八番であり、演奏していた。そして日本の演奏会場という、完全とは言えない環境ながらも、あなたが認める通り、私は大作曲家が本来含意していた、譜面に直接的に書かれていない音響的な意味を理解しようとしたのだ。そしてこの8年後の1908年、『竹製管楽器 尺八の音響学的研究』という博士論文を書いているあなたは、それが西洋由来の「石の文化」に根付いているものだとこの時察したのではなかったのか。つまり、あなたは、教会やコンサートホール、という石でできた西洋という<天井>に対して、紙や木でできた日本の環境で育った肉体で、科学的思考を持って理解しようと努めたのだろう。しかし、あなたの随筆からは、自分で生まれ育った環境からは隔絶した、当時先端のモダニティの思考も感知することが出来る。それは建築的な流行である。当時、残響時間を計測するコンサートホールが設計され始めていた。例えば、ボストンのシンフォニー・ホールは、1900年に、残響時間の操作という科学的な成果を応用して作られた初めての近代的なホールとなったのだ。もちろん、当時の先端的な科学知識はおろか、エイゼンシュタインの映画論まで理解し、尺八の音響学的研究をしたあなたにとって、残響時間に関する留意や、音響と建築の関係性について、考えつかなかったはずがないだろう。あなたはそれを易しい日本語で日常的な事象を扱うかの如く、特に科学用語を使用せずに読者に理解させようとしたのではなかったのか。そしてこれはまさに西洋近代という<天井>に対する分析であった。そのとき、あなたは西洋近代科学の建築という<天井>へと反復的な思考を行ったのだ。

 

しかし、それでも科学的な分析という<天井>へと反復的に思考を行うにあたって、あなたは日常的な人間臭い事象から出発することを忘れない。わたしは自分が異国で孤独に生活するにあたって、どこか孤高で近寄りがたい雰囲気を醸し出していたはずだと思っていたし、積極的に社交はしなかったのだが、わたしの演奏していた様子は「少し背中を猫背に曲げて、時々仰向いたり、軽くからだを前後に動かしているのがいかにも自由な心持ち」であると描かれている。そして『二十四年前』で描かれるあなた自身も、全く冷徹な合理主義者然とはしていない。わたしと会うにも「無紹介で訪問するのはあまりにもぶしつけだと思って控えていた」と言うし、「言葉がもう少し自由であったなら、もう少しケーベルさんに接近する機会が多かったかもしれない」という風に謙虚なのである。そのとき、あなたは科学的合理性という<天井>から、謙虚なわたしへと反復的な思考を行ったのだ。

 

先端芸術や近代科学に対し止むことなく思考し続け、そして随筆では人間臭く、しかし謙虚な「わたし」の素性を見せる。わたしは、あなた以外にそんな生徒を知らない。

 


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北米の黒人/プエルトリカンゲットーから、東京の広告村へ。日英翻訳仕事もたまに。

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