メイン画像

私は闘病マダム

私は闘病マダム



               私の幼少期

自分は幼稚園の頃から既に問題児だった。落着きがなく嫌なことや嫌いなことは絶対にしない、勝手に帰宅して大騒ぎになったことは何度もある、先生の言うことをろくに聞かないから後で親に大切な報告もできない。本人は涼しい風でいたって呑気。自分が変だという自覚がないのだ。
あまり度々先生の前で親も恥をかくので弟は別の幼稚園に入った。彼は普通にふるまえるから問題も起こさない。問題は小学生に入った私だ。
毎日その頃の友達が登校の迎えに来るのだが、母が学校に持っていくものを忘れていないか確認するのは毎朝のルーティンだった。宿題などした記憶がない、というより何が宿題かを覚えてないのだから。


記憶に残るエピソードがある。あれは冬休みに凧揚げを創作するという宿題が出た。B5程の和紙をつないで絵を描いて仕上げ校庭で飛ばすというモノだった。そういった分野は好きなので喜々と作り、休み明けに学校に行った私は驚いた。いや驚いたのは周囲のクラスメイトだっただろう。皆の持っている凧はB5×4サイズ、私の凧だけ異様にデカかった。×9はあったように思う。
何故そんな勘違いをしたのかわからない。
結局一人だけ特大サイズの凧揚げをした記憶がある。


あと家庭科で使う裁縫箱。私だけ申し込みを忘れて一人だけ違うのを使っていた。外の箱も中のはさみや針刺しの山も。無いと親に訴えて、どこかで母が買ってきてくれた赤い裁縫箱。捨てられなくて中年を過ぎた今も愛用している裁縫箱。自分だけのオリジナルだと思っている。



            謎の判定


小学校の三年の頃家に中年くらいの男性が来て自分にテスト用紙みたいなものを渡してきた。内容は忘れたがIOテストの類ではないか?どうやら、やっきれた親が困り果てて寄越してきたのだ。結果はよく知らないが人並の能力はあったらしく親がホッとしている姿を覚えている。小学校になっても幼稚園時代と変わらず自分は問題児というか劣等生だった。授業中に逃亡はしなくなったが退屈だと空想にふけるか昼寝。それでも図工や家庭科、国語は得意だった記憶がある。学校の図書館の本は卒業するまでに網羅するのが目標だったからかもしれない。



           ドクターの説明


脳梗塞で入院した最初の主治医は女性だった。彼女は私のMRIの映像を見ながら「頭の半分が空洞です。バイパス手術をお勧めします」と確かに言ったのだ。いわば脳みその生まれつきの奇形だ。そうか、だから自分は注意力散漫なのだと納得した。脳の半分に注意力を置き忘れて生まれてきたのだから。
入院前に私はある習い事をしていた。ひと月に一度、電車で一時間ほどの距離。
その日程をたびたび間違えるのだ、一週間ずれて。それも現地に行ってから気づくのだ。普通は事前に確かめないのだろか。自分も理由がわからない。
主治医は途中から男性に変わった。彼にMRIのバイパス手術の話をすると「片方の脳に必要なものは備わっているから必要ありません。でなければとっくに貴方は死んでますよ」と返事。
ふたりのドクターの見立ては異なるがひとまず自分は安心。しかしドクターふたりから宣告されたコトバが痛烈「一度死んだ細胞は復活しません。まわりの細胞の助けがあるようにリハビリがんばりましょう」
私は半身に中程度の麻痺と経度の視野狭窄という異常があった。
そうして私のリハビリ生活は始まった。

                         (つづく)









アカウントを作成 して、もっと沢山の記事を読みませんか?


この記事が気に入ったら きまっぴー さんを応援しませんか?
メッセージを添えてチップを送ることができます。


この記事にコメントをしてみませんか?


関西出身
東京女子大文理学部卒
ハウスマヌカン、派遣業、塾、コンパニオンなど様々な職歴
最近はバーのママをしていたが脳梗塞で倒れて閉業
現在リハビリ中
痴と知の融合、境界型の人間

このクリエイターの人気記事
おすすめの記事
2023/04/30 21:37 - きまっぴー
2023/04/23 21:04 - きまっぴー
2023/04/23 12:24 - きまっぴー